コンタクト
数日来、断続的に雨が降っていた。
大雪山・旭岳避難小屋で二晩過ごし、下山を始めた時のこと。
山麓へと続く登山道は幅が狭く、濡れて滑りやすかった。
おまけに霧も立ちこめ、視界が悪く明るさに欠けていた。
あるカーブに差し掛かった瞬間のこと。
下から登ってきたキツネと出会い頭にかち合った。
お互い笹藪が陰になり先が見えなかった。
驚いたのはキツネのほうだ。
きびすを返して、右の山側の茂みに飛び込もうとしたが断念。
次に左の谷を駆け下りようとしたが、これも無理と見たのか。
仕方なく登って来た道を戻ろうと2〜3歩進んだのだが、
思い返して向きを変え、真っ直ぐこちらを見て様子を伺っている。
こんな時、カメラはいつもザックの中だ。
山を歩くときの習慣として、常にそうしているのだが、
首や手にカメラを持っていると、歩きづらいし、危険な場合もある。
面倒なようだが、撮影時は一々ザックを降ろし、カメラ、三脚を取り出し、
その場での撮影が済むと、再び機材をザックにしまう。
この一連の作業を繰り返している。
ところが風景写真ならそれで良いのだが、生き物はだいたいが突然現れる。
それからおもむろにカメラをザックから出していたのでは、
その間に逃げられてしまうのが必定だ。
それが判っているので、こんな時は写真を撮ることを諦めることにしている。
それよりも、僅かな出合を大切にすべく、最大限五感を発揮することに力を注ぐ。
キツネの口元を見ると、菓子パンのようなものをくわえている。
どうやら山麓のキャンプ場からくすねてきたようだ。
「ははぁ・・・」
これで、キツネが逃げない理由が判った。
どうしても、ここを通り、上へ行かなければならないらしい。
私は、ゆっくりと、できるだけ穏やかな声でキツネに話しかけた。
「そうか、そうか、おまえはどうやってもこの先へ行きたいのだね。
そのパンを待っているものが上にいるんだろう。判ったよ。
それじゃ、横を向いて知らんぷりしているから、その間に通るといいよ」
キツネは首をかしげながら私の言葉を聞いていた。
私はキツネが通りやすいように、谷側に避けて遠くを見るふりをした。
それを見てほんの一瞬ためらったように見えたが、
すぐにキツネは意を決したかのように私の方へ向かって歩き出した。
横目でちらっと見る。
ズボンの裾に触れそうな至近距離でキツネは私を横切っていった。
歩みはあくまで並足だ。
急ぐのでもなく、慌てる様子もなく、またおびえる風でもない。
実に見事な肢体をしなやかにキツネは坂の向こうに悠然と消えていった。
その間、一度もこちらを振り向くことはなかった。
キツネは私の言葉を信じたかのようだ。
歩き去る後ろ姿に何のためらいも感じられなかった。
1998.8.6 暁の大雪山主峰・旭岳(姿見の池)・北海道