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奥武蔵に生きる写真家の表現と日常

アルバム 1994.1

■YASHICAFLEX 6X6 3.5/75mm T-MAX 400

古いアルバムより。

久しぶりにモノクロで撮ってみようかな・・・

 

仕事場の書棚を何となく見回しているうちに、一冊のプリントファイルが目についた。撮影は1994年の1月。プリント管理がささらほうさら(地元言葉)の僕にしては珍しくまとめてあるシリーズだ。ずいぶん以前に友人から貰ったヤシカフレックス(確か父親のカメラを使わないからって、勝手に持ってきてしまったと記憶している)で、身の回りの風景や人々をスナップしたプライベートフォト40枚がキャビネにプリントされファイリングしてあった。サンプル用にRCペーパーでストレートに焼いたもので、焼きはお世辞にもいいとは言えない代物だが、あれから12年。時間の流れとともに、被写体となった風景や身近な人々の変化は著しい。

 冒頭の桜の古木はすでに枯れ、最愛の祖母は21世紀を目前に101才という長命を全う、また愛犬もその後14年の生涯を閉じた。その間、日々暮らす街も大きく変わっていったし、当時、生まれて間もない娘は、今は中学生だ。そんな喜びや哀愁、悲しみも含め、もはやこれらの写真は僕にとって何ものにも代え難い大切な宝物だ。

 遠い彼方の風景写真もいい。だが、身近な、足元の日常的断片が、いかにその個人の人生を豊かにしてくれるものか、あらためて感慨深く思う。

 写真を生業とするものとして、ともすれば仕事(銭になる写真)以外の写真を撮ることを忘れてしまいがちだ。中には身の回りのスナップを撮ってそれを仕事として成立させている者もいるが、僕の場合、舞台写真がなりわい。そして仕事で撮る多くのカットはただただ生活の糧として消えていく。

 しかし、今一度自分に問うてみよう。ステージで写された人々(多くはアマチュアの少女やご婦人方)にとって、それらの写真はやがて宝石のごとく輝く大切なものとなる事を。撮られた直後は感じなくとも、10年、20年と歳月を重ねるごとにその輝きは深く、燦然としてゆくのである。

 もう、お分かりだろうか。写真というものは写した瞬間から、すでに過去のものとなる。何びとたりとも二度と同じ瞬間に立ち返る事はできないある時間がそこに封じ込められている。それは時の経過とともに一人歩きし、撮影時の意図とは別な価値観を増してゆくものらしい。もちろん、見る者、あるいは写真を所有するものによって、その感じ方は変わってくるのだが、なんと言っても、写真の原点は身の回りの記録に尽きる。そして、それらを記録するのには、モノクロームが最適だ。何げに取り出した一冊のアルバムは、僕に多くの事を語りかけてくれた。

 

 久しぶりにモノクロで撮ってみようかな・・・

 

 近頃の写真事情をかんがみるとなにも銀塩にこだわる必要もなさそうだが、いかんせん、デジタルカメラでは気分が乗らない。ここはやっぱり、ビシッと銀塩フィルムでいくとしよう♪